The key to the treasure is the treasure
セギュール伯爵夫人の 『ちっちゃな淑女たち』は、一見古めかしい物語ですが、少女たちのものの感じ方やいたずら気分が きめこまやかに描かれ、全体に、いかにも安定した、しつけや道徳にしっかりした基準のあった時代の、しっとりとおちついたふんいきや詩情がにじみ出ています。そしてそういう時代、そういう生活のなかにも、人間関係のむつかしさや、ある場合にはドラマチックな悲劇などが、決して避けることのできない 人生の事件として、丹念に織り込まれています。フランスの理想的な家庭教育を、物語の形で教えるこの本が、一種の古典として彼地で敬愛されているのも、故ないことではありません。
しかし、今の日本で、こういう本を子どもに読ませることには、どういう意味があるでしょうか。時代も生活習慣も宗教も習慣も、何もかも、一つとして 今の日本に妥当するところのない美しい物語。 甘すぎる解決、お人よしすぎる話の運びなどに、いらいらする人も多いことでしょう。正にそのことが、この本が今の日本で読まれるべき理由だと私は考えます。
私たち親たちは、すべてに確信を失っているのです。家庭にはいりこんでくるテレビの威力の前に、子どもたちを守ろうとしても、もうむだです。よい言葉やよいしつけについては、おとなでさえ忘れてしまっている現状です。何がよいことで、何がわるいことか、子どもたちは わかりやすい簡単な基準を与えてほしがっているのですが、それを与えることのできない親たちは、子どもたちをしかる資格さえ失っているのです。
『ちっちゃな淑女たち』には、美しい言葉、美しい心、美しい行為とは何かということが絶えず問われています。そのむかしのフランスで美しかった言葉、美しかった心、美しかった行為が、今の日本でそのまま美しいとは限りません。けれども、ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘い出します。一つの美しさは別の美しさと照応し、一つの美しさによって別の美しさが誘い出される。これが美の法則でもあり、道徳の法則でもあります。美しさは「誘い出される」のです。もしこれが確信を持たぬ不完全な美なら心をうちますまいし、またもしこれが 風土に根ざさぬ抽象的で高遠な人類愛のお話なら心をたのしませないでしょう。 遠い歴史と風土の中に咲く花であっても、 小さく咲いた完全なえにしだは、日本の可憐な夕顔の親せきになり、われわれの心に、忘れていた夕顔の美しさを誘い出すのです。いくつかの偏見をも含めて美しい、何がよいとされ何が悪いとされたかが厳然とした生活が、優雅に描かれているこの小説には、どんな時代になっても女性のあこがれである 「レディー」 の教育の典型が語られており、美と道徳との一致が、「婦徳」という古風な言葉を現実化させてゆく、きめのこまかい経緯(ゆくたて)が、田園のにおいと光のなかにたどられています。
「序」より、三島由紀夫さんの文章